畝傍校友会誌0611

 

祖父宗像逸郎のこと:畝傍高校校友会誌120周年記念に寄せて

 

関西学院大学教授  上野真城子

 

 

 しばらく前になるが、今年はじめ1月のこと、私は日本経済新聞の文化欄に祖父宗像逸郎のことを書いた。記事が載ってほどなく、関西学院の私の研究室に遠慮がちにやさしいお声で「お祖父様は畝傍中学校の校長であられた方でしょうか。」とのお電話があった。三代にわたって畝傍高校の卒業生で、かつ関西学院の卒業生であられるという勝川育司さんからで、思いがけなくうれしいことだった。

正直のところ、実は私はそれまで祖父のことをあまり考えたことはなかった。というのも、人生の三分の一を家族とともに米国で働き暮らして、私の関心はもっぱら現代社会の問題にあったし、先祖を振り返るゆとりもなかった。だが還暦を迎えたのちに、昨年、私は娘とともに米国の市民権を得ることとした。今の日本の法律ではこれは日本国籍を失うことを意味するひとつの決断だった。私と夫はそのとき、娘には日本人としての自覚と誇りを持って欲しいと願い、忘れかけていた家族のルーツをことあるごとに伝え記録も辿った。新聞記事を書くきっかけとなった祖父のこともそのせいであるのだ。

確かに祖父は畝傍中学校に明治33年から40年までの八年あまり勤めさせていただいた。今回、勝川さんのおかげで畝傍百年史、70年史を見せていただき、祖父が第2代校長として教育に専念したことを詳しく知ることが出来た。なかでも祖父が苦心して創った校訓「至誠、至善、堅忍、力行」が今も残っているとのことは大変にうれしいことである。

しかし一方、政策研究という民主主義国家にとっての重要な応用科学とも言うべきことに従事し、数年前から日本の大学教育に携わることになった私にとって、今の高校生にこの校訓がどう響くものか、少々困惑する。

祖父は慶応二年の生まれで、一八才のとき、出来て間もない講道館の嘉納治五郎の門下となった。柔道はうまくなかったようだが嘉納氏の信を得て講道館の教育を任された。祖父の精神の機軸はこの師と柔道にある。畝傍中学への奉職も嘉納氏の配慮によった。

日経の記事に書いたことはこの祖父が人生七十六年のうち40年、死ぬ前日まで付け続けていた日記のことだった。昔人が日記を書くことや長く続けること自体はさして珍しいことではないが、祖父の日記の特徴は自己の修養を採点表にしていたことである。表は祖父が立てた修養項目を横軸に列挙し、毎日を縦軸にした一ヶ月ごとのもので、ここに毎日、自己の評価採点がなされていたのである。これを始めたのは明治三十五年(畝傍中学にいたときである)で、その修養項目には「飲食節制、運動適度、昨夜睡眠、健康気分、職務勤勉、修学、質素倹約、秩序の生活、温良親切、知慮、剛毅、寛弘の量、禮譲、後進眞愛、家庭和楽、恩人報謝、安心樂善が挙げられている。畝傍中学の校訓もこうした徳目の中で考えあぐねたものであったのだろう。

最期の昭和一六年のものは「朝拝、夕拝、健康、元気、励精、善言、善行、読書、練思、案文、修心修行、家庭健康、家庭清福」という単純化された十三項目が挙がっている。それぞれの項目には○や△、やってないことは欠、?などが入れられ、一日が中の上、上などと総評されていた。あわせて一日の行動が時間を追って列挙されていた。酒飲みで癇癪も強かった祖父が自己研鑽の不足を嘆き反省する日々が多々あったようだ。

何かの事業を起こし、外で成功し名誉と名声を得るということは祖父の関心になく、自身に向かって刻苦勉励ただ徳を磨こうと努めた人生だった。祖父にとっては偉人とは人格の高潔さのことで、偉大さはすべて内部に求められた。残念ながら空襲ですべて焼失したがこの祖父の人生を記録した父(故宗像誠也、教育学者)によれば、退屈至極のものであったようだが四十年の採点表はそれなりの重みがあったという。

 私の関心はこれからさらに昔、米国の建国の父のひとり、発明家でもあるベンジャミン・フランクリンの自伝、13の徳目といわれる本を読んだのだろうか、ということにつながったのである。なぜなら、このフランクリン自伝に書かれたこの徳目とその習得に方法、すなわち日記と採点表の作り方がとても似通っているからだった。米国市民となった私にしてみれば、このつながりはとても興味深いものである。今回畝傍70年史など読みながら、多分祖父はこれを読んだものと考えることにした。フランクリンの勧めを彼の死後100年ほど経て海を越えて忠実に実行したのが祖父であったかもしれないと思うのはちょっと楽しい想像である。しかし徹底して自己修練に明け暮れた祖父の徳目と、アメリカ人のヤンキー精神の根源といわれるフランクリンの人生の成功のための徳目とは、その結果においてはだいぶ異なるものがある。

家では穏やかな好々爺であったようだが、教育の場では謹厳実直、厳粛で言ってみれば面白くない人間であったのではないだろうか。父は特に祖父の書いた何冊かの書物が、あまりに悪文で、冗長で、つまらないので、ほとんど読まなかったと告白している。私も多分祖父と暮らすことがあったとしたら、きっと逃げ回ったことだろう。当時の先生方も学生さんもお気の毒様と思うところだ。そしてより本質的には、祖父の持つ精神修養が明治の教育勅語と、日本の伝統の礼賛、皇国史観と日本主義、国家主義につながることに、私は祖父の明らかな限界を思う。

祖父は大正8年に宮城県仙台第1中学校長を最後に公職を退いた。その辞職の理由が当時の県知事との教育理念との衝突にあったようである。当時、県知事が県下の中学校生徒の学力比較試験を定めたことに対して、現場の教育者の意見もきかずに「軽率に実行したるの憾ありて甚だ不快」だったからで、中学教育の成績がよくないのは公立中学校長が不当な位置に置かれていることに原因があり、校長に自主独立の「教権」がなく、自己の全人格を活かし全責任を以ってその教育を実践出来ない、これは何処かに虚偽がある、また中学4年で上級学校へ行ける制度になったことで中学校が上級学校の準備教育の場になると思ったことが知事と正面衝突した理由であったようだ。若き日の畝傍でのような、自分の信ずる教育をやれなくなり、公立中学校長の「教権」と威信を失ったのが許せなかったのであるという。

私は祖父の日本主義と皇国史観は相容れないが、教育者としての全身全霊をかけた祖父の自負があればこそ、教育への権力の不当な介入を許さないとする精神とその反骨の精神があったものと考える。今高校教育の場で、国旗掲揚君が代斉唱などの上からの強請と教育基本法の改正の急速な展開など、国家主義と戦前への回帰の兆候は、いわば祖父の日本主義、精神主義がもてはやされる土壌が出来ているように思えて、私はひどく懸念する。これは実は1960年代に教育の自由と国家の不当なる介入を阻止し、教育基本法の精神を守るために闘った父が懸念したことであるのだ。

日本の伝統と文化は優れたものであると思う。しかしどの文化も国もそれぞれに美しく優れたものを持っている。西欧の文化と文明、その合理精神、論理的思考、平等と人権の思想、そして民主主義の希求もまた人類に不可欠の優れた歴史の達成である。どちらもどちらがより優れていて、どれかが他を凌駕するということではない。それぞれがもたらす多様な価値が存在し、そしてその存在のもたらす緊張と葛藤は、愚かな戦争で解決しようとすることでなく、困難であっても、議論し合意し、新たな価値観の形成を促す。その歩みにこそ人類の発展があると信じたい。この時代に最も大切な「私の態度」と「社会の態度」は、先入観を持たないこと、多様な価値観を良く知らないうちに、特定の価値観を絶対視したり優越感を持たないことである。自己の価値の基準を求め、ゆるぎないものにしつつ、しかしその基準を極端な原理原則主義に陥ることなく、開かれた、豊かな感性で、広くのびやかに学び続け、知識と経験を大切にすることが必要である。ひとつに偏った知識と経験やひとつの権威のみを盲目的に信じることは脆く危険である。そうした精神的なトラップに陥らないためには、人を愛し、ユーモアと芸術と遊ぶ心も大切である。信じつつも常に疑問を持ち、問い続ける、本当にそれでいいのか、不正に対する「公憤」をもって問い続けることが出来る力こそ、大切であると思う。

私は今結局のところ、祖父と父の血筋を得たものか、関学で学生の教育に携わることになった。長く米国で暮らしたこともあって、これからの青年には若いうちから海外を見、世界を視野に、世界に貢献することが不可欠で、その中で日本への貢献も日本への愛も生まれると思っている。私は今夏、機あって久しぶりにモンゴルに学生を連れて出かけてきた。ウランバートルでは相撲力士の大きな看板がかかり、また丁度柔道の選手権が開かれていた。それを見あげつつ、しかし私は祖父の時代の精神とは異なった心で、アジアのひとびととの協同の関係が築けるようでありたいと願った。

至誠、至善、堅忍、力行に加えて、二十一世紀をつくる畝傍の高校生には、一国を超え、地球儀と宇宙までをも心に、新たな時代の金鵄として羽ばたいてもらいたい。