フランク・ロイド・ライトと世界遺産 <落水荘を訪ねて>
長沼亜紀
アメリカを代表する建築家といえばフランク・ロイド・ライト(Frank Lloyd Wright 1867-1959)だが、日本では旧帝国ホテルの設計で有名だ。彼の作品群を、ユネスコ(UNESCO)世界遺産に登録しようとする動きがあると聞き、昨秋、ペンシルバニア州南西部にあるライトの傑作の一つ「落水荘」(Fallingwaterhttp://www.paconserve.org/index-fw1.asp参照)を訪ねた。静かな森の中にたたずむ山荘は、モダンでしかも周囲の自然に溶け込み、美しかった。建築についての知識のない私が書くもの僭越だが、ここではアメリカの世界遺産をめぐる動きと、ライトの生涯、落水荘について簡単に紹介したい。 |
アメリカと世界遺産 「世界遺産をすべて訪ねてみたい」というのが私の母の夢だが、「世界遺産」という言葉はとにかく日本人の心をくすぐるものがある。ところで、この「世界遺産」というアイディア、もともとはアメリカが積極的に提唱したものだと知り驚いた。1972年に採択された「世界の文化遺産および自然の保護に関する条約(世界遺産条約)」をまとめるリーダーシップを発揮したのはアメリカ、同条約に最初に批准したのもアメリカだった。アメリカの世界遺産としては78年にイエローストーン国立公園が指定されたのを皮切りに、自然遺産ではグランドキャニオン国立公園、ヨセミテ国立公園、文化遺産ではインデペンデンス・ホール(ペンシルバニア州フィラデルフィア)や自由の女神など、これまでに20ヵ所が登録されている。 しかし、アメリカは、ユネスコの財政問題や政治化を嫌い84年に同組織から脱退、さらに95年にはイエローストーン国立公園の保護への世界遺産委員会の介入をめぐり、国家主権との関わりで論争が起きたため、新たな遺産登録には消極的になっていた。ブッシュ政権になってようやく、同組織と遺産登録への関心を取り戻し、2003年にユネスコ復帰、さらに現在は、古くなった遺産登録推薦リストを見直し、新たな候補地の募集を行っている。国際機関に懐疑的で、環境問題に対する取り組みでも批判されがちなブッシュ政権だが、このような側面があったとは意外である。 ライトの建築物については、1990年代前半、ライトの仕事場があったタリアセン東西(ウィスコンシン州とアリゾナ州)の登録を目指したが、世界遺産委員会は「もっと包括的に申請してほしい」として申請を差し戻した。このため、今回は、「フランク・ロイド・ライト建築物保存協会」(シカゴ本部)が、タリアセンに加え、グッケンハイム美術館(ニューヨーク市)、落水荘などライトの20作品をまとめて登録できるよう準備を進めている。 同協会のリンダ・ワーゴナー世界遺産登録プロジェクト長は、「近代建築に大きな影響を与えたライトの思想と作品を百年、二百年と継承するために、米国だけでなく世界にも認知度を高めたい」と話す。ライト作品はいまのところ人気があるが、トレンドは変化しやすく人々の関心が薄れ忘れ去られてしまうことも懸念される。世界的に価値があると国際機関に認めてもらうことは、作品を次世代に残していく上で不可欠な戦略で、保存に携わる地域や組織にも大きな励みになるという。 天才建築家の波乱万丈な人生 ところでライトとはどんな人物だったのだろうか。約70年間にわたる建築家としての活動の中で、住宅、事務所、教会、学校、図書館、橋、美術館など1141点を設計し、このうち532点が完成、409点が現存している。(1) ライトは、南北戦争終結から2年後の1867年、ウィスコンシン州で生まれた。アメリカ文化が大きく発展する時代と重なったライトの生涯は、この時代の動きに大きく影響を受けたとされている。父親は音楽家兼牧師、母親は教師の家庭で育ち、ライトは早くから建築家になるという志を抱いていた。当時、多くの人はヨーロッパに留学して建築を学んだが、裕福ではなかったライトには叶わない夢だった。(2) そこでウィスコンシン大学で3学期間、土木を学び、その後、シカゴのAlder and Sullivan建築事務所で製図技師として働き始めた。そこで実力をつけ、次第に自分自身で設計も手がけるようになり、1893年に独立し、次々と作品を発表。「Prairie House」コンセプトという彼自身のスタイルを生み出し、40代前半で建築家としての高い評価を確立した。 しかし、この生産的な期間は1909年に終わりを告げる。ライトは最初の妻と子供を捨て、顧客の妻だったチェイニー夫人とヨーロッパに駆け落ちした。アメリカに戻り、二人は1914年までタリアセンで暮らしていたが、気が狂った召使が屋敷に火をつけ、夫人と召使ら6人を殺害。名声を犠牲にしてまで一緒になった夫人と、そしてタリアセンを失ったライトは失望し、世間からは建築家としてのライトのキャリアは終わったとみなされた。 その後、約20年間、ライトはさらに2回再婚し、建築家としては東京の旧帝国ホテルの設計や講演・執筆活動を行っていたが、あまり多くの作品は生み出さなかった。再度、転機が訪れたのは、1932年に「Taliesin Fellowship」を設立し、若い建築家の養成に携わるようになってからだ。ライトは、再び精力的に設計に取り組み始め、その復活を象徴する作品となったのが落水荘である。ライトは92歳で亡くなるまで、タリアセンを拠点に多くの作品を生み出し続けた。 落水荘 落水荘は、ワシントンDCから車で北西に4時間ほど走ったメリーランド州、ウエストバージニア州、ペンシルバニア州の州境のリゾート地をさらに奥深く入った森の中にある。ゲートを抜け、車を止め、山道を少し歩くと野鳥の声に混じってせせらぎが聞こえ始め、ベアラン(Bear Run)と呼ばれる小川の上に建てられた山荘が姿を現した。川と岩の間に張り出した大きなテラスとガラス窓が印象的だ。 この建物は、ピッツバーグでデパートを経営する富豪カウフマン家の別荘として設計され、1936年着工、1939年に完成した。当時としては技術的に極めてチャレンジングなデザインで、作業を進める度に問題が起き、現場監督がタリアセンにいるライトと連絡を取り解決していったという。ライトが提唱した「有機的建築」のコンセプトが反映され、その土地にあった巨岩をそのまま建物の軸として活用、壁や床にも土地から切り出された岩を使うなど、自然素材が有機的に組み合わされている。一家がくつろぐ居間、寝室、書斎がある三階建てのメインハウスはテラスを含め5,330平方フィート、離れにある平屋のゲストハウスは1,700平方フィート。大きな居間以外はコンパクトな作りだが、光の入り方から、空調、家具の配置など隅々にいたるまで、緻密な計算と工夫に満ちている。完ぺき主義者だったライトは、木材の木目の不ぞろいまで気にかけたという。室内には、カウフマン家が世界中から集めた美術品、織物、書籍などで飾られており、その中には、ライトが日本で購入し、同一家に贈った安藤広重や葛飾北斎の版画も含まれている。どの空間も心地よく、軽やかかつ洗練されており、建築とモダンアートに影響を与えたライトの輝かしい才能が実感できる。 山荘を離れ、少し歩くと、ちょうど建物の真下から滝が流れ落ちているように見える見晴台がある。そこに立つと、この場所にこのような建物を作ろうとしたライトの着想と情熱がよく理解できる気がした。 落水荘は、ライトがデザインした内装がオリジナルのまま保存され、一般公開されている唯一の建築物とされている。年間の訪問者数は約14万人。世界遺産登録が実現しても、受け入れ人数は制限し、環境と建物への影響を配慮しながら公開と保存のバランスをとっていくという。 (2007年2月)
見学のTip: 参考: 参照:
長沼亜紀(ながぬま あき): 北海道出身。筑波大学国際関係学類卒。米ジョージ・ワシントン大学大学院国際関係修士課程修了。北海道新聞社記者、フォーリン・アフェアーズ・ジャパン編集担当を経て、現在、東京・中日新聞社ワシントン総局現地スタッフ。ワシントンDC在住。 関心分野:アメリカ政治、社会一般(政策決定過程、利益団体、政党) |
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