スラグ・ライン(Slug lines): ワシントンDC通勤者の秩序と合理性 土屋 ゆかり(Tsuchiya, Yukari) - WJWN(Washington Japanese Women's Network)

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ワシントンと私

スラグ・ライン(Slug lines): ワシントンDC通勤者の秩序と合理性:VIEWS 2015年冬号(第40号)掲載

土屋 ゆかり(Tsuchiya, Yukari)

ワシントンDC通勤事情

ワシントンDC 市内にはアメリカ政府機関を初めとして、各国大使館、国際機関、大学、研究所、法律事務所、報道関係、日本企業事務所などが集中している。DC内から通勤する人々もいるが、大多数はメリーランド州かバージニア州の郊外から通ってくる。

私の場合はバージニア州のスプリングフィールドからワシントンDCに向かう395号線という高速道路を使用する。DCへ向かう3車線とスプリングフィールド方面に戻る3車線がある。一般の高速道路との違いは、その往復車線の間に更に別の2車線があることだ。この2車線を朝の通勤時には車はDCに向かって流れ、逆に午後は帰りの車がDCから郊外に向かって流れるというシステムである。また、この2車線はHOV(High Occupancy Vehicle)レーンと呼ばれ、通勤者用のエクスプレス・レーンである。朝のHOV時間帯は午前6時‐9時、午後は3時30分‐6時となっている。この時間帯にHOV車線を利用するには1台の車に運転手を含めて3人以上乗っていなければならない。

朝のラッシュ時に車でワシントンDCに向かうのは容易なことではない。一般の車線を使ってDC入りしようとしたら、えっちら、おっちら、渋滞の中を辛抱強く自分で運転、事故なし、工事なしで無事に進めたとして30分から45分はかかる。片や、HOVレーンを使ったら約10分で車は流れる。HOVを利用しない手はない。運転手は誰でもよいから自分の勤務地の方向に行く人を2人乗せたい。運転しない方もバスに乗るという方法はあるが、雨風の日に屋根もなく座るベンチもないバス停に立たされるのは辛い。

働く市民の知恵「スラグ・ライン」

こうした通勤事情のなか、需要と供給がマッチして生まれたのがスラグ・ラインだ。HOV車線を利用したいドライバーは同じ方面へ通勤する他人を同乗させたい。車を運転しない・したくない通勤者はだれかの車に同乗したい。この両者が集まるところがスラグ・ラインで、行先が合えば相乗りが成立し、双方にとって問題解決となる。 “slug-lines”のslugはナメクジではなく、偽造コインを意味するらしい。スラグ・ラインが定着する初期の頃、タダ乗り希望者はバス停に並んでピックアップされるのを待った。バスに乗るために待っている人たちと区別をしなければならなかったバスの運転手たちが、バスを待っているのではない「偽者」という意味で使った用語がそのまま今日に至るまで使われているようだ。いわば働く市民の知恵から生まれたシステムで、公官庁は一切関知していない。あくまで、give & takeの関係なので、運転手とただ乗りさせてもらうスラガーの間には金銭的なやり取りも一切ない。あるのは、暗黙のうちに生まれた常識的ルールとこれまた常識的マナーである。時間を大切にするワシントン近郊通勤者は知らない人同士でも誠にスムーズにシステムを活用し、その存続に協力、努力を惜しまないのには本当に感心する。

スラグ・ライン創設者の一人に会ったことがあるが、広まった背景にはgive & takeの合理性だけでなく、1970年代の環境問題も影響していたとのこと。時間とガソリンの節約だけでなく、排気ガス削減に貢献することも目的のひとつであったそうだ。

いわゆるカープールと似ているが、カープールは同じ人と同じ時間帯に毎日一台の車を共同使用して通勤するのに対し、スラグ・ライン利用者は自分の都合に合わせてライン場所に出向き、ピックアップに止まる車の目的地と合致すれば順番に乗ってDCへ向かう。従って、同じ運転手と会うこともあれば、毎日違う運転手だったり、乗り合いのスラガーもその時々で違うということになる。カープールを組むよりもある意味気楽、かつ、ガソリン代の支払いという費用もかからない。もっとも効率的な通勤法かも知れない。

「知らない人を乗せたり、知らない人に乗せてもらって何か事故はないんですか」という質問をよくされる。ワシントンDCのラジオ番組でスラグ・ラインが取り上げられたことがあるが、それによると暴力や窃盗問題は報告されていないそうだ。私自身も個人的に耳にしたことはない。

勤務初日に始まったスラグ・ラインとの関わり

私とスラグ・ラインの関わりは、DC勤務の初日に始まった。バージニア郊外からDCにどう通勤してよいのか分からなかったので、ある国の大使館に勤務するご近所さんの車に乗せてもらうことにした。1990年9月のことだった。助手席に座った私は「その辺のバス停に立ってる人をピックアップしていくから、“ペンタゴン!”と叫んでね」とご近所さんから言われた。とまどいがちに、”Would you like a ride to Pentagon?”と言ったら、軍の制服を着た女性がきょとんとした顔で私の方を見るではないか。一時停止した車の運転席から”Pentagon!”と大きな声が飛んだ途端、”OK”と言って制服の女性が後の席に乗り込んできた。それでも、もう一人足りなかったので(当時は運転手を含め4人乗っていることが条件だった)、395号線入り口近くのスラグ・ラインに寄ってスラガーをもう一人ピックアップした。こうして無事HOVレーンに乗り、ご近所さんは一人をペンタゴンで落とし、もう一人を国務省近くで落とし、最後に私を勤務先近くで落として、マサチューセッツ通りの大使館へと去った。

要領を覚えた私は当時二人の子供がまだ小学生だったため、緊急時に職場から家へ直接帰れるよう、運転手側に回った。子供たちを学校に送り出してから、見知らぬスラガーを3人ピックアップしてHOVレーンに乗り、DCに向かった。スラガー3人を拾うには午前8時ごろラインに着くのがよく、遅くとも8時半までには行かないとスラガーの数が少なくなり、スラガー待ち時間を取られたこともあった。大きなアメリカ人男性が3人車に乗り込んできた時はフェザー級の運転席がぐらりと揺れるほどだった。3人を各々希望する場所で降ろし、自分の車を止める場所はあるかと心配しながら駐車場の最上階まで行き、狭いコンクリート階段を駆け下り、職場に急いだものだった。

当時の職場は今とは雲泥の差で、時差出勤だの、家族休暇などなく、一分でも遅れて着くと、こわ~い総務のおばちゃんがこれ見よがしに腕時計を見たりする時代であった。思えば、携帯電話などという便利なものもなかったから、家族と連絡をとるのも非常に難しかった。

運転手からスラガー

数年後、子供たちへの心配が少なくなった頃から、私は運転手からスラガーに変わった。以来、朝はDCの18th Streetへ行く車に「グッドモーニング」と言って乗り込み、“18th and G Street プリーズ”と言ってあとは運転手が話しかけない限り静かに座っているだけ(スラグライン・エチケットその1)。18thと Gの角で降ろしてもらう時は当然、「サンキュー」と言う(エチケットその2)。

私が利用する帰りのスラグ・ラインは19th 通りとF通りの角から始まる。午後のHOVが3時半から開くので、それを利用する車を待つスラガーが3時過ぎには列を作り出す。が、さすがにこの時間帯ではピックアップに止まる車が少なく長く待たなければならない。運転手とスラガー双方に便利なのはやはり4時から5時30分だろう。6時近くになって拾ってくれる車がなかったらどうするかって? そうですね。やり方はいくつかあるのですが、地下鉄を使う方法、あぶれたスラガーが乗り合いでタクシーで自分の車の止めてあるスプリングフィールドまで帰る。でもね、大方の場合、6時を過ぎてもまだ心細そうにピックアップを待っているスラガーを見かければ、止まってくれる運転手もいるということです。これは、アメリカの合理主義に基づいて持ちつ持たれつの精神で40年も続いているすばらしいシステムですからね。

著者紹介

土屋 ゆかり(Tsuchiya, Yukari)

国際機関退職者、退職後はパートタイム勤務を続けている。在米27年。



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