アウシュヴィッツを訪ねて 今村 弘子(Imamura, Hiroko) - WJWN(Washington Japanese Women's Network)

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アウシュヴィッツを訪ねて:VIEWS 2019年冬号(第56号)掲載

今村 弘子(Imamura, Hiroko)

ビルケナウ収容所の貨車と「死の門」。ここで囚人の「選別」が行われた
ビルケナウ収容所の貨車と「死の門」。ここで囚人の「選別」が行われた

東ヨーロッパは美しく、ボーダレス?

私は2018年9月末から10月初旬まで2週間余り、夫と二人で東ヨーロッパを旅行した。クロアチアの南端ドブロブニクからアドリア海岸沿いを北上。ボスニア・ヘルツェゴビナ、スロべニアなど旧ユーゴスラビア連邦から独立した国々を訪れた後、ブダペスト(ハンガリー)、プラハ(チェコ共和国)など他の旧共産圏の国の首都も見て、最後にポーランド入り。そこでウオッツロフ、クラクフ、アウシュヴィッツを見て、アメリカに戻るという旅だった。

訪れたどの場所も個性があり素晴らしかった。最初のクロアチアでは半袖でも汗ぐっしょりになるほど蒸し暑く、最後のポーランドでは歯がガチガチ鳴るほど風が強く寒かった。どこでも移動はほとんど車(ハイヤー)だったが、数か国の国を通って行ったというのに、実際にパスポートを提示して検問を受けたのは1~2回だった。つまりこの地域の国境はほとんどすべてオープン。

だたこの辺りはたとえEU加盟国であってもユーロに統一していないし、クレジットカードが使えない所も多く、毎日違う貨幣を用意して、頭の中で換算しながら使わなければならなかった。私の乗っている車は止まるどころかスピードを落とす事もなくやすやすと国境を越えて次の国に入ってしまうのだが、その直後にその新たに入った国の小銭を持っていないと、すぐ先の休憩所の公衆トイレにも入れない、という状況だ。

私の生まれ育った日本は海で囲まれていて、少し運転すれば海に突き当たる。私が成人してからずっと住んでいるアメリカでは反対に車で何時間・何日間行っても海どころか国境も見えない。あらためて、このヨーロッパの国境感覚というのは私の住み慣れている日本やアメリカと全く違うと感じた。でも世界全体で見れば、このような国境感覚の方が普通なのではないか。そして将来はこのようないわゆるボーダレスが世界各地でさらに進んでいく事になるのだろう。

真っ青な空と海、内陸部の高山や渓谷の緑、そしてドナウ川やモルダウ川沿いに栄えた中世の面影を残す都市など、様々な所を訪れた。美しい景色や建築物だけでなく、第二次世界大戦中に戦場・迫害の地となった悲惨な歴史の跡地、たとえばユダヤ人が包囲されて全滅したユダヤ人居住区(ブダペスト)、ホロコースト犠牲者としてマデレーン・オルブライト元米国務長官の祖父母の名前も記されているユダヤ人シナゴーグ(プラハ)、映画「シンドラーのリスト」で有名なシンドラー工場博物館(クラクフ)なども訪れ、いろいろな事を考えた。がやはりなんといっても旅行の最終日に訪れたアウシュヴィッツ収容所が、私にとってはもっともインパクトがあり、他の訪問地とは本質的に違うものであったので、今回はそこを中心に書きたいと思う。

日本人ガイド中谷さんによるアウシュヴィッツ収容所案内

2017年の春、NHKのテレビ番組で「唯一日本人でポーランド政府公認のアウシュヴィッツ収容所ガイド資格を有している中谷剛(なかたにたけし)さん」という特集を見た。それ以来、いつかアウシュヴィッツを訪れる機会があれば、ぜひこの中谷さんという方に案内をお願いしたい、と思っていた。それは予想より早く、番組を見た1年半後に実現する事となった。ちなみに、中谷さんは50代前半ぐらいの方で、30年近く前にポーランドに移住し、以後ガイドになるための猛勉強を経て、20年以上もアウシュヴィッツの案内をされているそうだ。

以下、中谷さんの案内に言及しながら、私自身のアウシュヴィッツ訪問の体験を述べていく。が、中谷さんの案内を録音していたわけでもないし、メモをとっていたわけでもない。はっきり覚えていない部分も多々あり、中谷さんの説明の内容を正確に再現するということは出来ていない。したがって、以下の文章の内容はすべて私の解釈・私の責任である、ということを理解しお許しいただきたい。

アウシュヴィッツ収容所の入り口
アウシュヴィッツ収容所の入り口

10月3日朝7時15分、宿泊先のクラクフのホテルに前日に頼んでおいたタクシーが迎えに来てくれ、1時間余り片道一車線で真直ぐに伸びた田舎道を走り、私と夫はアウシュヴィッツに到着した。中谷さんの日本語での案内(所要時間3時間)は9時開始、その10分前には入場口の前に集合していてください、と事前のメールのやり取りで言われていたのでそこに行ったら、もうすでに20人ぐらいの日本人が集まっていた。私の夫はアメリカ人で英語しか出来ないので、同じく9時開始の英語での案内(所要時間6時間)に申し込んであり、収容所の入り口で別れた。

中谷さんの案内は、自己紹介も前置きもなく始まった。入り口で空港のようなセキュリティーチェックがあり、それを過ぎた所でイヤホーン・セットを借りて、中谷さんのマイクに番号を合わせた後、私たちのグループはあまりにも有名なアウシュヴィッツの門(”Arbeit Macht Frei”「働けば自由になる」と書いてある)から敷地内に入っていった。

囚人たちが寝起きしていた建物に次々と出入りして、中の展示物を見ていく。彼らが持って来たかばん、鍋食器類、眼鏡、靴、刈り取られた髪の毛など膨大な量の物が展示されている。当時の様子を写した写真も僅かながら残っている。ほとんどナチス監視員が撮ったものだが、中には囚人が隠れて撮ったものもあり、解放後に発見されたのだという。

中谷さんによる問題提起

中谷さんの案内は、展示物の説明はもちろんだが、それ以上に、どのようにしてこのようなことが起きたのか、という問いかけを中心に進んでゆく。敷地内の建物から建物へ私たちのグループが歩いて移動する間も、彼の話は絶え間なく続いた。まずポーランドという国について。今年(2018年)は建国100周年にあたる。というのは、第一次世界大戦までは3か国(ロシア、プロイセン、オーストリア)による分断統治やその他の隣国の支配下にあった事もあるが、戦争終結後1918年に独立し、それ以後は比較的穏やかで繁栄を享受、ユダヤ人も多数共存していた。しかし1930年代にヒトラー政権が台頭し、1939年にポーランドに侵攻して第二次世界大戦が始まってからはポーランドも戦場となり、各地の収容所で強制労働や殺戮が行われ、ヨーロッパ各地から連行されて来た多くのユダヤ人のみならず、ポーランド人も多数犠牲となった。1945年にナチスが崩壊してからはソビエト軍が侵攻し、以後40年以上も共産圏におかれた、という苦悩の歴史がある。

中谷さんの次の問題提起-ナチスによる迫害の標的となったユダヤ人とは誰なのか。もともとキリスト教はユダヤ教から始まったが、その後ユダヤ教を信奉する人はヨーロッパ・中東各地に移り住み、肌の色も顔かたちも言語も文化も生活習慣も様々で、外見だけでユダヤ人を特定する事は難しい。また、ユダヤ教は母系制度なので、母親がユダヤ人であればその子供は自動的にユダヤ人となるが、逆に父親だけがユダヤ人の場合、子供は自動的にユダヤ人とならない。そのためトランプ大統領の娘のイヴァンカさんが、ユダヤ人である男性と結婚することをきっかけにユダヤ教に改宗した、という例を挙げていた。

中谷さんの説明はさらに続く。収容所に送られたのはユダヤ人だけではない。政治犯、同性愛者、ジプシー(最近はロマと呼ばれている)、知的・身体障害者など、社会の弱者を徹底的に排除しようとした。ヒトラーは独裁者と言われるが、当時のドイツは民主主義社会であり、彼は選挙で選ばれた。民主主義・平等社会の推進は、既得権者や、その恩恵を受けず社会の流れから取り残されたと感じる人々の不満を募らせ、そこから区別・差別・排除の必要性・動機付けが生じ、正当化されてしまうのか。加害者・被害者・協力者・傍観者などの構図も個人の確固たるモラルに基いて確立されたものか、それとも状況によっては立ち位置が流動的に入れ替わってしまうものなのか、などいろいろと考えさせられた。

収容所では囚人同士お互いを監視させ、生と死の極限状態に追い込み、そこで生存競争をさせた。死体から金歯や髪の毛を剥ぎ取り、焼却炉に運び、灰の始末をしたのも囚人たちだ。ナチス隊員は監視員として直接手を下していなかったから、加害者という意識はなかったということなのか。それとも、このように異常な状態に置かれると、誰でも自分の正気を保つために様々な防御的思考に陥るのだろうか。

ルドルフ・ヘスの家
ルドルフ・ヘスの家

アウシュヴィッツの焼却炉の前に立ち、右手を見ると、塀を隔ててそう遠くない緑の木々の向こうに、収容所所長だったルドルフ・ヘスが家族と住んでいた家が見える。この暖かく食べ物があり自分の愛する妻と子供たちがいた家と、飢餓・極寒・病気・過労・疲弊・絶望で多くの人々が死んでいった収容所の敷地とを、ヘスは所長だった数年間いったいどのような気持ちで毎朝毎晩往復していたのだろうか。ナチス崩壊2年後の1947年、ヘスはこの自分の家が見える場所で絞首刑となった。ちなみに、ここアウシュヴィッツで育ったヘスの娘の一人は、数年前のインタビュー記事によると、成人してからは私の住んでいる所の近く、アメリカのワシントン郊外ヴァージニア州北部に長年住んでいたという。

ビルケナウ収容所に移動

この後、私たちのグループはアウシュヴィッツを後にし、シャトルバスで数分の距離にあるビルケナウ収容所に移動した。ここは写真で有名な「死の門」(レンガ造りの細長い建物の真ん中の高い門)があり、そこを通り抜けて線路が敷かれている広大な敷地で、その後方部にはいくつものガス室と焼却炉の跡が残っている。線路が終わった所には今でも囚人たちが運ばれて来た貨車が1台止まっている。そこで降ろされ、待ち受けていた医師により誰が労働送り、誰がガス室送りになるかの「選別」が行われた。中谷さんはそこで私たちの足を止め、「選別」の様子を克明に説明してくれた。そしてガス室送りとなった人が歩かされたという、ガス室と焼却炉のあった所まで真直ぐに伸びている長く幅広い道を、私たちも歩いていった。

中谷さんの説明はテンポが速い。3時間ではとても自分の伝えたいことは全部話し切れない、という感じだ。話し方こそ穏やかで普通の速さなのだが、次から次へと史実、統計、ここで起きたこと、その時の状況などをどんどんこちらに投げかけてくる。同時に常に日本社会との接点にも触れ、このアウシュヴィッツで提起されている問題は、日本から遠い所で起きた過去の出来事・現代の我々とは無関係、ということでは済まされないとでも言うように、私たちをぐいと引き入れる。たとえば1930年代のナチス台頭の話では、その頃日本はどのように朝鮮半島や中国や南アジアで勢力を強めていったかという話を交える。ナチスのこのような残虐行為を当時どうして誰も止められなかったかという話になると、日本のいじめでも、いじめられた子を助けようとするとその子自身もいじめられたり仲間外れにされたりするので、悪いとは思っても傍観してしまう。ヨーロッパでは現在、移民・難民の流入が社会問題となっているが、日本でもやっと政府が移民政策に乗り出した。ナチスは障害者を社会から排除しようとしたが、2020年の東京オリンピックではいかにバリアフリーの施設やサービスが提供できるか、パラリンピックを成功させられるかなどで日本が試される、などなど。

結論は自分で導き出すもの

このような中谷さんの話を聞いていると、私たちの頭の中でもどんどんいろいろな問題点・疑問点が湧いてきて、ついその事実関係・因果関係などを手っ取り早く整理して理解し、早々に適当な結論を出して「はい、わかりました、これでその話はもう十分」と思いたくなる。ところが、そのけじめのいい結論が出る前に彼の話は突然止まり、「ここから先は皆さんが自分で考えて判断してください」と言われる。そして間髪入れずに次のテーマへと移っていく。常にそのように頭がもやもやとしたままでほっておかれ、案内が続いていくのだ。

私はずっと以前にもこのような思いをしたことに気がついた。情報を与えて問題を提起してくれるのだが、結論を導き出す寸前に「はいここまで、あとは自分で考えて」と突っ放すのは、40年前に私が行った大学の教授たちのやり方だった。結論をはっきり教えてくれないので、授業の後、私たち学生は煙に巻かれたような思いで教室を出て行ったものだ。でも今になって思えば、それにより私たちの思考力は鍛えられ、その後もその事柄への関心を持続させることができた。

私たちが一生考え続けていく課題

ナチス政府はどのように民衆の支持を得てこれだけ大規模な殺戮を行えたのか。ルドルフ・ヘスなど直接関わった人たちはどのようにこの二重人格のような毎日を送れたのか。現在、世界中で起きている移民・難民排斥現象と共通している点は何か。人間の心の深奥に潜んでいる区別・差別の気持ちはどのような状況で表面化し、行動として具現化・正当化されてしまうのか。中谷さんは私たちに様々な疑問を投げかけ、考えるきっかけを与えてくれた。というか、彼の話を聞いたら、もう今後の私たちの人生ではそうしたことを考えずにはいられない。

中谷さんの案内が終了し、私たちのグループはそのままビルケナウで解散となった。その後、じきに夫が参加していた英語ガイドのグループがビルケナウに移動して来たので、私はそのグループに合流した。この英語のガイドさんはこの近くで育ったという超美人のポーランド人。自分のおじいさんも戦時中政治犯としてオーストリアのマウトハウゼン収容所に送られたが生還した、今は自分の両親も自分もアウシュヴィッツの公認ガイドをしていると言う。中谷さんといい、この方といい、私が今回出会ったガイドさんからは「我々は体験者ではないが、その次世代としてアウシュヴィッツを世界の人々に伝え続けていくのが、自分たちのライフワーク」という強い決意・気概が感じられた。訪問者である私たちは、ここからまた自分たちの住んでいる社会・環境に戻ってゆくわけだが、これからは今日ここで見た事・聞いた事を少しずつ消化しながら生きてゆき、折に触れ考えていくことになるのだろう。

アウシュヴィッツで判明した夫の曾祖父母の消息

ホロコースト犠牲者の「名前の本」
ホロコースト犠牲者の「名前の本」

私がこのグループに合流するなり、夫が「さっきアウシュヴィッツでものすごい発見をした」と言った。夫の母方の曾祖父母(夫の母の父方の祖父母にあたる)は、ユダヤ人であるが、夫の母とその両親(つまり夫の祖父母)が1939年にドイツからアメリカに逃れて来る時一緒に来るのをためらい、そのまま当時住んでいたハノーヴァーに残った。その曾祖父母はその後1942年にハノーヴァーからテレジン収容所送りとなり、それきり消息がわからなくなっていた。(もちろん戦後生還しなかったということはわかっていたが。)が、先ほど偶然、この英語のガイドさんが、ホロコーストで犠牲になった420万人の名前が載っている大きな「名前の本」というものが展示されている部屋を案内してくれたという。そしてそのガイドさんの説明中に夫が急いでその本のページをめくっていったら、なんと自分の曾祖父母の名前を見つけたそうだ。曾祖父はテレジンで殺され、曾祖母はアウシュヴィッツで殺された、と記載されていたという。ということは、夫の曾祖母はテレジンからアウシュヴィッツに移されて、今私たちが立っているこの線路が終わっている場所で「選別」されたということか。その「選別」後70余年を経て、今回アウシュヴィッツを訪問した自分のひ孫にそれを伝えたというのか。それを聞いた私は、足元の線路を見ながら足がすくみ、夫に返す言葉もなかった。

人類の創り得る最も美しい物と最も恐ろしい物

レオナルド・ダヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」
レオナルド・ダヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」


アウシュヴィッツ訪問の前日、クラクフ市内の国立美術館を訪れたのだが、そこで思いがけず素晴らしい絵に出会った。レオナルド・ダヴィンチの「白貂を抱く貴婦人」だ。その息を呑むほど美しい描写とそこから醸し出される静かに魂を揺さぶるような空間とに、ただただ感動した。1490年頃の作だそうだが、とてもよい保存状態だった。さらに驚いたことに、この美術館はがらがらに空いていて、暗い静寂な部屋でこの絵を見ているのは私と夫だけだった。

というわけで、私はクラクフの美術館ではこの世で人類が創ったこの上もなく美しい物を見て、その翌日アウシュヴィッツ収容所では、同じく人類が創った物ではあるがこの上もなく恐ろしい物を見ることになった。どちらも自然の景観や災害ではない、人間の意思のなせる業だ。美しい物を創るか、恐ろしい物を創るかは、我々の意思による選択なのだ。にもかかわらず、この両者は、このように時空を超えて我々人類の歴史・意識の中で永遠に共存・共生し続けてゆくものなのだろうか。



著者紹介

今村 弘子(Imamura, Hiroko)

東京生まれ。雙葉学園高校在学中1年間アメリカのフロリダ州に留学。ウィリアムズカレッジ、コロンビア大学法科大学院を卒業後、ニューヨーク州の弁護士資格を取得。マンハッタンの法律事務所でビジネス法務、その後ワシントンの世界銀行で南アジアや中東の開発プロジェクトの法務などを担当。



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